応用倫理学の考え方

「応用倫理学の考え方」(小阪康治、ISBN:4888489998)を読む。
科学教信者っぽい視点からの批判になりそう。
明らかって?

科学的測定の限界

ふつう科学的測定を根拠にすれば、中立的で客観的な最終決定ができると考えられる。しかし判決文の中では科学的なはずの測定について厳しい見方がされている。つまり、一、リンの算定方法には問題があること、窒素については対策がなされていないこと、二、下水の高度処理の導入を前提にしているが、計画的かつ確実な実施については疑問が残ること (中略)三、福岡市が過去に行なった博多湾内でのふたつの埋め立てにおいて、いずれも環境評価が環境基準を満たすという市側の予測に反し、ほとんどすべての測定点において、環境基準を超える汚染が観測されていること (中略)四、データが意図的に操作されたとまでは断定できないものの、計画的な調査だったとは言い難い (中略)五、最後に、各生物への影響についての調査も不十分だとしている。(PP66-67)

福岡市博多湾内の埋め立てに関する裁判の判決文で、環境アセスメント結果について上のような批判があるらしい。著者はこれを「科学的測定の限界」としているが、かなり無理がある。リンの算定方法に関しては「科学的測定の限界」と言えるだろう(どんな測定方法だったのか知らないけど)。過去の環境評価が予測とあってなかった点も、精度的な限界と言えるかもしれない。それ以外は科学とは関係ない。

明らかだ

現状では発展している地域の環境破壊には厳しく対応し、経済的に不十分な地域ではゆるやかに対応する方針を採るべきことは、一般人から見ても妥当なところだろう。/博多湾の埋め立ては、工業国の地方中核都市における開発と自然保護の問題であることを考えれば、この学説からの答えは明らかだ。(P72)
原子力発電は有害物質の廃棄が明確である限り、その新規の増築、建設は見合わせるという方向を支持せざるを得ないことである。(中略)なぜなら半永久的に有害な物質と知りながら廃棄することが、無責任で、悪意によることは否定し難いからである。(P92-93)
子どもの知る権利を制限しておいて、親だけが自分の自己決定権を優先して生殖補助医療を行なおうとすることは許されない。知る権利が全面的に認められている人間と、制限されている人間という二種類の人間が認められてよいはずはないからだ。(P110)

また「明らか」か。ここだけじゃなく、この本のいろんなところに出てくる。そんなに自説に自信があるのだろうか。でも急に説得力がなくなってしまうよ。

中立的な倫理

倫理の立場とは、科学、司法、行政の諸立場の限界を超えたところにある。(中略)これらの諸専門領域にくらべると、倫理の立場だけが比較的中立的で全体的な立場から、問題を見渡し、具体的に発言、回答できることを、この実例で示した。(P77-79)

ぜひ倫理学の立場から諸問題への具体的回答を続けていってほしい。皮肉でなく。それができなきゃ応用倫理学の意味がないしな。