科学者って何だ?その2 〜「科学者とは何か」

以前に「科学者って何だ?」*1ということで少し書きましたが、村上陽一郎氏が「科学者とは何か」(ISBN:4106004674)という、ほとんどそのまんまのタイトルで本を出していたので読んでみました。
以前に書いた内容から分かるかもしれませんが、私はこのタイトルで、科学という営みはどんなものか、それに携わる人にはどのような素養が必要か、というような内容を求めていたわけです。ですが、残念ながらこの本の内容は全く違っていました。この本は、科学者と呼ばれる人の職能集団はどのようなものか、というものでした(わかりにくいかな)。このように、「裏切られた」感を持ったからかもしれませんが、「気に障る」内容でした。私はこの本で想定している「科学者の職能集団」に属してはいませんが、科学的態度を取ろうとする「科学者」でありたいとは思っているので、この本の批判が「気に障った」のかもしれません。

昔の科学者、今の科学者

この本では科学者を「無責任態勢(表紙)」「基本的に誰に対しても責任を負うことがない(P31)」としています。これは科学者と呼ばれる集団が生まれた頃、知識職能集団(聖職者、医師、法曹家)は「この世で「苦しんでいる人々」に、救いの手、助けの手を差し伸べる(P26)」もので神に対して責任を持つが、同じ知識職能集団である科学者にはそれがない、ということのようです。まぁ、そうかもしれません(そうだったのかもしれません)。
ですが、今もこの態勢が変わっていないとするのには疑問があります。もしかしたら、未だに「無責任」なのかもしれません。では、科学哲学者はどうなのでしょうか。誰かに責任を負っているのでしょうか。三島と太宰は自殺した若者に対して責任があるのでしょうか。結局、「無責任」というレッテルを貼るのは科学者に対してではなく、いわゆる学者さんに対してなのではないかと思います。もちろん本当に「無責任」なのかについては議論の余地がありますが。

ノーベル賞の是非

村上氏はノーベル賞について、あってもよいと考えているのでしょうか。ないほうが良いと考えているのでしょうか。
ノーベル賞はもはやその役割を終わった(P103)」と言っていますが、その理由として「研究者は、賞の獲得を、研究の「結果」として考えるよりは、むしろ「目的」として考え始めた(P102)」といった弊害を挙げています。一方、京都賞ブループラネット賞などが話にあがったときには、「報奨制度の形式や理念が今後の科学技術研究の方向にある程度の影響を与えることは十分に予想してよいことだし、また期待してよいだろう(P176)」「正当に評価されて褒賞される制度があったほうが良い(P177)」とも言っています。と思ったら、あとがきには「二一世紀に世界が必要としている「知的活動」が、現在のノーベル賞選考基準に適うようなものではない(P184)」ことをノーベル賞が不要な理由にしています。

  • ノーベル賞が目的化した→他の賞だってそうだろう
  • 今必要とされているのはノーベル賞と方向性が違う→「正しい」方向を持った賞を持ち上げるのはいいけど、ノーベル賞を貶める理由としては弱い

単に、ノーベル賞は大きくなりすぎたからダメ、と言っているような気がします。
ただし、「多くの一見関係のなさそうな領域における極普通の知識に十分な目配りが効き、しかもそれらを必要でない情報や知識から選り別けた上で組み合わせ、そこから、絶対的な因果性に基づく演繹ではないながら、しかしあり得べき様様な可能性を導出してみることができ、しかもその導出された結果を検討・評価して、未来についてのしかるべき判断を下すことができる(P156)」能力が必要とされているという点に関しては賛成です。安井至氏*2の鳥瞰型環境学*3という概念と通じるものがあると思います。
ノーベル賞は最も権威のある賞であるため、才能のある研究者がその分野に力を向けてしまう。今必要とされている分野に人材が流れるようにするためには、ノーベル賞をなくすことが戦略として有効だ。』という感じなのだろうか。消極的には賛成できるけど、積極的に主張できるもんじゃないかな。

事実なのか、都市伝説なのか

「同業者から全く認められていない発表者の場合、その種の発表は、朝一番にプログラムされるのが通例となる。会員はたまたまその発表に間に合うように来場しても、そういう発表が行われている間は、廊下で待っていて、会場には入らない(P87)」

という話は他でも聞いたことがあるような気がする。でも本当にこんなことがあるんだろうか。具体的な例があったら教えて欲しいな。でもそんな発表が本当にあったら、みんないじりたがるんじゃなかろうか。*4

「生物学の領域では、ある人だけが「可能」な実験というのがある。誰がやってみても、その人の言う通りの方法に従って再現しようとしても、その人が言うような実験結果は得られないが、その人がやるとうまく行く、という形で知られている実験があるのである。そして、絶対的な根拠があってのことではないが、その実験結果は、一応学会では認められている(P98)」

これもうさんくさい。再現性を否定した論文が一報くらいなら、元論文が完全に否定されるとは言えない。でも「誰がやってみても」というほど数報も否定論文が出ていたら、さすがに認められはしないだろう。あからさまに否定するとも思えないけど。

「いわゆる素人、非専門化が、たまたまある領域に関して、新しい発見をしたと信じよう。(中略)レフェリーは(中略)その論文を拒否する公算が高い。その理由は、論文の「書き方」という、ある意味では形式的な問題にある。(P70)」

そりゃそうだ。論文を出すんなら、その雑誌にくらい目を通すべきだろ。似た内容の論文を参考にして書けば楽だろうし。これを「門前払い」というのはどうかと思うが。

そのほか

「自然科学は、客観性を標榜するあまり、それを乱し、あるいは汚すような、人間的な要素が入り込むことを極度に警戒し(P151)」

違うと思う。「人間的な要素」が何を指すのかはあまり明確ではありませんが(例としては、環境に影響を及ぼす人間の活動が挙げられている)、「人間的な要素」を嫌うのは、それがあると再現性がなかなか得られないからです。扱うのが大変なんです。客観性が得られないからではありません。人間を扱う医学では、薬の効果を確認するのに統計的な処理をするので、データがたくさん必要です。データを取るのは大変です。これも科学です。

「研究者の共同体が、「相互信頼」の上に成り立っており、そこでの研究活動や、それに伴う業績評価、さらにはそれに基づくキャリア造りなどの間に、意図的な「不正」や「詐欺」の入り込むことはあり得ない、という思い込みに等しい前提が、共同体の内部を支配している(P95)」

こんな思い込みはない。データ捏造などの「不正」があることはみんな分かっている。最近の大規模なデータ捏造事件を引くまでもなく、日常的な研究でも「エラーデータ」を弾くことはデータ捏造の第一歩だし、どこまでやっていいのかみんな悩む。たしかに論文を読むときには、「ミス」はあっても「嘘」は(高確率で)ないと思っている。でも捏造事件はおこっている。「不正」を許さない、もっと良い仕組みはないのだろうか。データ捏造が暴かれている現状を見れば、自浄作用が「正しく」働いていると言えるのかもしれないけど。もうちょっとましな仕組みがあるような気がするのだが。

最後に他の人の意見もどうぞ。どちらもこの本に対して批判的ですが、わざと選んだわけじゃないです。(ある程度の分量があって)肯定的なものがなかっただけです。肯定するだけならわざわざ書評なんて書かないからだろうけどね。

*1:http://d.hatena.ne.jp/muramototomoya/20051230/scientist

*2:http://www.yasuienv.net/

*3:http://www.yasuienv.net/BirdsEyeView.htm

*4:天羽氏のページ(http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=1222)には、「物理学会といえば、ニセ科学な学会発表も許すことでその筋に知られている(というか、ニセ科学な発表を排除するしくみを全く持たない)。ずいぶん前だがUFO研究家の清家新一氏が発表したときは、前後の相対論の研究発表ずっとギャラリーが多かった」と書かれている。これは村上氏の言とは食い違っている。私もそんな発表があったら聞きに行くと思う。すぐ飽きるかもしれんけど。