現代科学論が何なのか分からずじまい 〜 サイエンス・ウォーズ

「サイエンス・ウォーズ(金森修 ISBN:4130100858)」

よくわからんかった。この本は科学論や哲学の素養を持った人向けに書かれてるんだろうな。専門用語が多くて、それ関係の素養がない私には何を言っているのかさっぱりなところばかりだった。と思いながら読み終わったら、やっぱり「現代思想」に書いたものの再掲だった。それならしょうがないかという気にもなる。だけど、サイエンスウォーズという現象は、科学者vs科学論者という構造で、金森氏は科学論者側なのだから、科学者にわかる言葉で書いて科学者を叩きのめして欲しかったなぁ。

この本を読むきっかけの一つになったのは、次のページ「金森修によるサイエンス・ウォーズ・キャンペーンの実態:http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/kanamori.html」。正直なところ、枝葉の部分への批判多いなとは思うが、主要と思われる部分に関しては意味がわからないのでしかたないか。枝葉の部分に「撒き餌」が多いのは確かだしね。

サイエンスウォーズという現象の流れは、おおまかに言うとこんな感じなのだろう。

  1. 現代科学論の主張
  2. GL(グロス氏とレヴィット氏)の反論
  3. 科学論者の再反論
  4. ソーカル氏の「詐欺」論文

おそらく私にとってこの本がわかりにくかったのは、議論の一番土台になっている「現代科学論の主張」がどんなものなのかほとんど説明されていなかったからだと思う。「現代思想」の読者であれば、その辺は説明しなくても当たり前のことなのかもしれないけど、私はそのへんに疎いので論証の第一歩目がわけ分からないままに先に進まざるを得なかった。だから、「GLが本来目指していたはずの現代科学論叩きが中途半端で対象選択も一面的すぎるということを示した(P45)」と言われても、GLが「社会構成主義、ストロングプログラム、科学人類学、アクターネットワーク理論、科学政治学、科学の修辞論、科学の社会的イメージ論、器具・装置論、言説分析、実践としての科学論、STS、社会的認識論、モード論など最も有名なものだけをあげても十指に余る多くの潮流(P30)」すべての現代科学論に共通する何かを叩こうとしてたのか、よくわからない。こんなに多様なものなら、一緒くたにして批判するのは到底無理だろう。というか、GLの批判に対し、お前が批判しているのはもっと広いものだ、と言うのは論点をずらしているだけだと思う。本当は私もGLの論点をはっきりさせるためには元論文を読む必要があるとは思いますが、そこまでする気力はない。

客観的真理の専制状態??

私はある種の心の高ぶりを覚えてしまうのだ。そして少し反省的にその心の動きを捉えなおしてみると、私だけではない、人間一般の精神というものがもつ特性に対して、妙な言い方で恐縮だが一種のいとおしさを感じてしまう。曰く、客観的真理の専制状態から逃れる、人を隔てる壁を突き崩し、社会生活を革命的に民主化する。近代科学のヒエラルキーを転覆し、流動と不安定性との危うい均衡を生き抜く云々。そこには「主体」としての個人がもちうる一種の矜持、気概、覇気のようなものが感じられないだろうか。「客観的真理」を暴君のようなものとして捉えるという、それこそ準客観的に見ればほぼ無意味な感覚でさえ、ある了解可能性をもっている。
(P90)

ごめんなさい。さっぱり意味がわかりません。
「客観的真理の専制状態から逃れる」とか「近代科学のヒエラルキーを転覆し」とか、何を言っているのだろうか。万有引力の法則から逃れて空を自由に飛ぶとかそういう意味なのか?哲学的素養がある人には理解できるのかもしれないけど、素養のない私にしてみれば、この文で何か言ったつもりなのだろうかと思ってしまう。誰か私にこの文の意味を説明してください。
このすぐあとで出てくるのは、よく突っ込まれているこの文

ソーカルはダンス音楽をオシログラフの波形としてしか見ない無粋な人間ではないか。

突っ込みたくなる気持ちもわかるけど、私はこういった類のは基本的にスルーしてる。何の根拠もない「チラシの裏」につっこむのも無粋だし。というか、こういうのを金森氏は本気で書いてるんじゃないよねぇ…

分からないことを分からないと言えない人には、(論文誌を編集するのは)難しい。

ソーカルは、もし編集委員会がその論文の専門的側面を十分評価できないのなら、物理学者に意見を訊くべきだったと述べているが、それは少しおかしい。ソーカルもプロの物理学者の一人なのだから、もし仮に誰か他の物理学者に訊くということになると、いったいどんな基準でその物理学者を選べというのか。
(P92)

その話題を扱ってそうな物理論文誌の編集者に連絡して、レビューしてくれそうな人を一人二人紹介してもらえばいいのだ。レビューは正しいことを証明するためではなくて、明らかに間違っていることをはじくだけでいい。そこまでやってれば、もし「間違った」物理の話題が載ったとしても、物理学者も見抜けなかったと言って言い訳できたんだろうに。実際にはそこまでやるのは面倒なのもわかるけどね。

もしソーカルが、自分が微妙なところまでは知らない(だろう)無数の領域、動物行動学、環境問題、美術史、文学、インド史などの領域において、その道の専門家から同様の罠をかけられたとしたら、彼はおそらくその罠にかかるだろう。
(P92)

これもどういう状況を想定してるのだろうか。ソーカル氏が編集者の物理雑誌に、インド哲学の観点から解釈した相対性理論の論文が投稿されるとか?分からん内容なら素直に分からんといえばいいのでは?分かったふりをするのが問題だって言ってるんでしょ。

科学論って…?

要するに科学者サイドの議論の作り方は、サイエンス・ウォーズという「大事件」が起こる契機となったこの数十年に及ぶ科学論者たちの仕事を、何ら消化しえていないのである。それが単なるカルチュラル・スタディーズ叩き、ポストモダニズム叩きで終結してしまうのであれば、多くの問題は手付かずのまま残されることになる。
(P102)

ここも同じだ。「科学論者たちの仕事」とか「多くの問題」って何なの?議論の足元がしっかりしてないから、何が問題なのかさっぱりわからん。

批判する価値

地球温暖化の果ての「エデンの園」!よくもまあ、ぬけぬけとここまで言えるものだ。(中略)だがここまでくると、このタイプの科学者を必死に批判する気さえなくなってくるから不思議である。必死な批判は、やはりそれに値する価値を秘めた対象に向けてなされるべきものだ。こんな言説は事細かに分析しようと思うほどの魅力さえ持っていない。このタイプの科学者の批判を本稿の主軸にする気にはなれない。
(P389)

地球温暖化の果ての「エデンの園」』というのは、温暖化すれば寒冷地が住みやすくなって(赤道直下には人がたくさん住んでいるが、ロシアの寒冷地には人はあまり住んでいない)、居住可能地域が広がる(人口も増える?)というものです。これくらいなら「ぬけぬけと」言っても問題ありません。ただし、熱帯地域が広がるとマラリアなどの伝染病が増えますし、「急激な」温暖化によって生態系の変化が気候の変化に追いつけないといった問題はあり、温暖化のメリットとどちらが大きいか比較する必要はありますが。
後半の、批判する気さえなくなってくる云々の考え方には共感を覚えました。「オシログラフの波形」の話などは、「必死に批判する気さえなくなってくる」のです。ここまで私の気持ちを代弁してくれたのはなかなかないです。

さいごに

やっぱり最初に書いたように、科学者にわかる言葉で書いて欲しかったです。