メディアの役割…? 〜「食卓の安全学」「化学物質と環境円卓会議」

安井至氏のページ『「食卓の安全学」&疑似科学*1経由で「食卓の安全学」(松永和紀ISBN:4259546775)を読む。安井氏のページをよく読む人にとってはそれほど目新しい内容はないかも。でも内容がしっかりしていることは確かなので買って損はない。特に第2,3章が良い(第4章を実行するのは非常に難しい、というか無理)。この本で面白かったのは表紙&帯のデザイン。amazonなどで見ればわかると思うが、本来のデザインは赤白チェックのかわいい感じのものなのだが、本に付いていた帯はおどろおどろしい雰囲気でチェック柄の部分を完全に覆ってしまっているため、元の雰囲気が180°変わってしまっている。帯のデザインって著者に許可を取ってるのかな?これはかなりひどいと思うぞ。

でもうひとつ、安井氏のページ『メディアは「安全」を報道できるか』*2経由で、化学物質と環境円卓会議(第13回)議事録*3。これはおもしろい。議事録なのに。

その中から一部を引用してみる。

(瀬田) 最後に化学物質の安全を伝えるのはメディアの仕事ではないとおっしゃいましたが、これに対して若干のこだわりが感じられます。1つは危険であると報道した後の修正の問題、もう1つは安全ということを伝えないという姿勢があるように感じることです。この辺を詳しくご説明いただきたいと思います。
(小出) これはニュースバリューの問題になると思います。報道は1度でおしまいではなく次々に修正、訂正を行います。完成品を目指してなるべくバランスのとれた良い報道をしたいと思っています。例えば、事件の場合、最初は「危険」から始まりますが、報道をしているうちに報道のバランスを取るように努力します。ですから、安全情報も実際に出しています。一方、安全ということを特に取り上げてニュースにするかといえば、それは極端な場合に限られると思います。例えば、ダイオキシンを舐めると身体に良いとか青酸カリを舐めると元気になるというような安全情報があれば、それは大ニュースになります。しかし、そうではない形で、「これまでの報道で強調した危険度を少し差し引いてくれ」というようなことをを取り上げるということはなかなか難しいと思います。発信側にとっては、第一報の印象と報道を修正していく過程の中での印象とでは違うという理由から、改めて報道すべきだと思われるでしょうが、これはなかなか難しいと思います。

(注:強調は村本)

つまりメディアは完成品を目指して次々に修正をおこなうべきだが、「思ったより危険ではない」という情報はニュースバリューがない(売れない)から報道しない、と言っているのだ。修正するんじゃなかったのかよ(笑)。

私はメディアに属する人間は多少なりとも「真実を伝える」という使命感を持っているのだと思っていた。だがこの議事録を読む限りにおいては、そのような使命感は全く持ち合わせていないようである。私も企業に属している技術者の端くれだが、「売るための技術開発」ではなく「社会をよくするための技術開発」を心にとめているつもりだ。確かにそのような意識は通用しないことがほとんどなのだが…

「食卓の安全学」にも同様の話(メディアは信用できないこととか)は載っているが、円卓会議議事録ほどのショックは受けない。それは、松永氏が(メディア側の人間ではあるが)外からメディアを批判しているように感じられたからだと思う。「(私以外の)メディアはひどい」と。一方、円卓会議議事録のほうは、「多少悪い点はあっても大したことないでしょ?」って感じで周りから見れば悪いことを何が悪いのか理解していないという感じかな。

あとちょっと、議事録で

組織的に報道をチェックするということはありません。
(中略:村本)
実際問題として組織的に報道をチェックするのは無理だと思います。

という部分が、安井氏のページでは

回答は、そのような組織は無いし、持つべきだとも思えない、というものでした。

となっているが、ちょっと改変しすぎ。「持つべきだとも思えない」とまでは言ってないように読める。その場ではそういうニュアンスだったのかもしれませんが…