ほんとのこと知りたいだけ、でもない 〜方法序説

メモページ*1でえぬさんから「常識の疑い方については、デカルト方法序説」が結構参考になるよ」とコメントをもらったので読んでみた。
普通に日常生活を送っていると、「マイナスイオン」が体にいいという「常識」が備わると思います。同様にビタミンが体にいいという「常識」も備わると思います。同じ「常識」ですが後者は正しく(程度によるでしょうが)、前者は間違って(?)います。この差を見分ける方法論なんかがあったらいいなと思ってたわけです。
結論としては、「方法序説*2」を読んだだけでは、そっち方面には役立ちませんでした(私にとっては)。最初に全部疑うという方法では、生きていけないので。でも中身はなかなか面白かったな。
この本は「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する(P46)」が中心ということになるのだろうけど、その周りは批判したいポイントがたくさん出てきた。でもきちんと批判しようと読み直すと、うまく言葉にできなくなる。とりあえず、最初の感想を大切にして書いてみる。

証明問題の思い出

中学の数学の証明問題を思い出しました。特に幾何の証明問題で、図を見れば同じ角度なんだけど、うまく定理に落とし込めないときに、「明らかに」っていう言葉をよく使ってました。この本でもよく出てきます。

明晰にわかっている?

「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」というこの命題において、わたしが真理を語っていると保証するものは、考えるためには存在しなければならないことを、わたしがきわめて明晰にわかっているという以外にまったく何もないことを認めたので、次のように判断した。わたしたちがきわめて明晰かつ判明に捉えることはすべて真である(P47)
(強調は村本による)

この辺、かなり大胆だと思うな。わたしがわかっているから真理だって言い切るなんて。第一原理にするのは構わんけど、それを真理って言っちゃうのはどうかと思うぞ。

神様から科学へ

わたしが考えうるあらゆる完全性をそれ自体のうちに具えている、つまり一言でいえば神である本性だ。(P49)
神があり、存在すること、神が完全な存在者であること、われわれのうちにあるすべては神に由来すること。その結果として、われわれの観念や概念は、明晰かつ判明であるすべてにおいて、実在であり、神に由来するものであり、その点において、真でしかありえないことになる。(P54)

神様を完全な存在にしちゃったのに、そこから科学的方向に進んだのはなんでだろう。「なんで空は青いのか→神様がそうしたから」と思考停止に陥らなかったのはなんでか。